Much learning does not teath understanding:本当の理解はどこから来るのか
ふと目にしたこの英語が気になり調べてみました。
"Much learning does not teach understanding."
「多く学んだからといって、理解できるとは限らない」
これは、たくさんの知識を詰め込んでも、それが本当の意味での「理解」につながるわけではない、という意味です。
この言葉は、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉として知られています。
彼は、単なる記憶や知識の積み重ねではなく、「本質を洞察する力」が重要だと考えていました。
知識(情報)を持っていることと、それを深く理解し活かせることは別だ、ということですね。 例えて言うなら:
・本を100冊読んでも、その内容を心で感じ取り、人生に活かす力がなければ意味がない。
・試験に合格する知識はあっても、人の気持ちを理解する力がなければ、人間関係ではうまくいかない。
「teath」は造語?「teach+truth」
しかし、私が見たこの英語は「teach」でなく、なぜか「teath」と記されていました。
"Much learning does not teath understanding."
「teath」を辞書で調べても出てきませんし、恐らくこれは造語と思います。
私が、感じとった造語「teath」=「teach+truth」です。
日本語では「真理を教える」になるのでしょうか。
"Much learning does not teath understanding."
→ 「たくさん学んでも、真理を教えてはくれない」
→ 「知識の積み重ねだけでは、真実の理解には至らない」
そして真理は、学ぶことで、新しく入れるものではなく、思い出すものという考えが古くからあります。
古代から多くのスピリチュアルな教えの中で語られてきました。
・プラトン哲学では「学ぶとは、魂がかつて知っていたことを“想起する”こと」
・仏教では「悟りとは“本来の自己”に還ること」
・スピリチュアルな解釈では「魂はすでにすべてを知っていて、地上でそれを“思い出す旅”をしている」
私たちは人生を、「知識だけで習得し終わり」でなく、「行動が伴い感情から理解することで、実感」を体験している存在と思っています。
そして実感すべき究極は、真理であり、より高次の真理を実感することが、人生ではと思うこの頃です。
たとえ真理までは言わなくとも、行動して感じ理解することが人生の醍醐味なのではないでしょう。